憂鬱に振り回される大学生

某私立大学生にして鬱病に過去二回既に悩まされた人生不適合者の日記

テストが近い!

テストが近い。正直そんな勉強しなくても単位は取れるだろうが、周りが勉強するので周りに差をつけられないように勉強をしている。

しかしそれは自分の自由意思に従って勉強をしているというより、強迫観念に近い。そうとわかっていても矢張り抗えない。実際中間テストだって平均より圧倒的に高い点数を取った。周囲に差をつけられるどころか、私の方が勉強はできるだろう。それがわかっていてもダメなのだ。

 

自分に完璧を求めるあまり崩壊を導かぬよう注意をしている。過去二回それで自らの人生を大きく曲げてしまったから。一体どこまで己を追い詰めればいいのか日々研究している。自分の完璧と自分の最善の妥協点を探している。

 

なんでこんなに自分の思考に苦しまなければいけないのか、人間ってすごく不器用だと感じる。その御心も私の誇りの1つであると感じてしまっているのもなんだか嫌だ。

 

正直何を言ってるのかよくわからないだろうが、とにかくテストを前にすると明らかになる自分の矛盾した心持ちが嫌だがどこか誇りに思っているところもあり、矛盾を誇りに感じてるところが嫌でたまらないということを言いたい。

 

この文を一週間後の自分が見たら馬鹿らしくて消したくなるだろう。鬱っていうのはそんなもんばっかで改めて考えれば考えるまでもないことが多いと思う。本人にすれば大真面目でも他人から見れば塵に同じなのだと思う。

だからこそこの文を書く。今の自分にしかかけないようなことばかりでずっと後に、数年後にでも見返せる様に刹那にしか抱かなかった思想でも、だからこそ保存しておきたい。

 

そういえば長らく更新していない間に成人した。酒最高

 

ゴミクズ人間

今日は幾らか自由な筈なのに何となく気分が塞ぐ。これから僅かな間、穏やかな日々が続くはずなのに心は穏やかじゃない。優しい日々が終わるのを恐れるがあまり、優しい時にも怯えて過ごさなきゃいけない。

 

中学生くらいからの長い間他人は結局他人で、最終的に信頼できるのは己の身だと分かっていた。だけど他人のちょっとの優しさに触れて勘違いをした。人は優しいのだと勘違いした。

優しい人もいる。だけど大半の人は屑なのだ。それを失念していた。

 

己だけ利を得ようとするゴミしかこの世はいないと思ってたから私も常に自分だけ得をしようとしていた。 しかし親に諭されて、親友の優しさに感化されて無償の優しさを示した。

そして裏切りを知った。

結局ゴミクズばかりなのだ。付き合いの長い友でさえ消極的な蹴落としをする。そして知らぬうちにその人間との差は広がる。見える優しさは打算的な優しさだと痛感した。

こちらが裏切りに気づいたと相手は知らない。 そもそも裏切りとすら思ってもいないのだろうか。私が優しさを求めすぎているのだろうか。もうよくわからない。

何で人間ってこんなにもクズなの。

道化しかいない。思ってた通り。

 

私も二度とアイツらには無償の優しさは見せない。

もはや完璧ではいられない

完璧ではいられないなんて、そんなことはずっと分かっていた。

けれど自分のボーダーラインがあった。ここを超えたら自分は完璧だと感じる境界があった。

もはやそれすら越えることは能わない。

 

それを今日の数学の授業で感じた。

しかし不思議なことにそれは救済になるかもしれない。

 

完璧感覚で自分の精神を安定化させてずっと生きてきた。そう思っていたがそうではない。完璧感覚は麻薬に違いない。一時的な全能感に浸り時期を過ぎれば新たな全能感に浸るための実績を探す。

その実績作りの過程は数を重ねるたび確実に険しくなる。そしてずっとその麻薬作りに縛られていた。

今日は何時間勉強した。これから何時間勉強しなきゃ。昨日はここまでしか進まなかったから今日はここくらいまでは、、、

心はすり減るが、たまに幸福を得る。そしてすり減った以上に心は満たされる。

 

小学生の頃なんかは勉強なんかせずとも優越感を感じていた。圧倒的にリターンの多い仕組みだった。

しかし最早努力と成果の間に差異はなくなりつつある。寧ろマイナス。心は消耗されて、この心の経済体制は破綻する。

 

その日が今日だったのかもしれない。

 

もう殆ど麻薬を生産できないだろう。だけどもう二度と薬の副作用に悩まない。嗚呼、どうか穏やかな日々が続きますように。今日はもう寝よう。

精神世界の露呈

英語の授業が頗る憂鬱だ。

ライティングの授業を仕方なく受けているのだが、世界一嫌いな授業になるかもしれない。 そもそも英語は苦手ではない。某テストでは(特定が怖いのでボヤかすが)800点以上はとったし、今のところ英語の成績は順調。

にも関わらず嫌いなのは簡単に言えば苦手だからだ。嫌味ではない。

小学生のような言い訳かと思うかもしれないが、これがわたしにとっては一大事になってくる。

 

そもそも得意苦手といった意識は結局のところは主観的なものでしかない。たとえどれ程の実績を残そうと最終的な決定権は心にある。自らの神に従い慢心を恐れるがあまり全てが苦手になる。

 

私は英語が苦手だ。だから英語で文章を書けなどと言われたら必至に調べて英文を書く。

 

どう説明すれば良いのか分からない。

それでも拙さや難解さを恐れず書き連ねるのであれば、自分の中身が露呈するのが怖いのだ。この気高く深淵の奥底に没落する精神を誰にも見られたくない。

日本語であれば喜んで文を書こう。己の思う狂乱世界を示そう。しかしそれでも書くのはいつも偽りの文だ。 自分は日本語が通常の会話における意思疎通に問題がないほどには出来る。だから己の見られたくないところを的確に隠し、全て日常しか表さない。 私が書くその文に魂は宿らない。

(ここに誓う。この文には私の全てがある。その核心に嘘偽りはなく、まさに赤裸々な私を書いている。この世界の匿名性を利用して全てを吐き出していると誓う。)

 

しかし英語はどうか。私はそこまで英語が上手くない。的確に己の精神を埋め、身体を出すことができるほどに上手くはない。 私の書く英文には私の精神がありありと露呈している。 今まで生きてきてひたすらに隠していたものを教員に提示しなければいけないことは甚だしく苦痛だ。それでも抗ってひたすらに己のものではない言葉を探し文に連ねる。

幸いなことに今のところは心の流出はほぼないと思う。

 

 

嗚呼、あと半分。隠しきれるのだろうか。

 

 

束の間の幸福

初めての記事を書く。今は鬱を感じないから今のうちに書く。常にこの気分であればこの世界でも何も問題なく生きて行ける気がするが、実際には

憂鬱でない:憂鬱=4.5:5.5

くらいの割合だと思うのでそう上手くはいかない。幸福を感じる時なんてもっと少ない。

 

何故このブログを書くかというと、憂鬱に苛まれている時の自分の思考を保存したく思ったからだ。鬱である時とそうでない時の思考パターンは明らかに異なり、鬱である時の方が圧倒的に実りの多いことを考えているように思える。しかし悲しいことにかつて経験した鬱による素晴らしい思考は再現すらできない。ただ覚えているのは人の精神の核心に迫れたことだけ。 中学に初めてエリクソンによるアイデンティティの主張を聞いた時、まさにこれだと感じたことだけは覚えている。そんな素晴らしい思考を保存すべきだと思ったから保存をはじめるのだ。

またこのブログがもしかしたら一部の人間に役にたつかもしれない。太宰治人間失格を読んで自分は何故か一時の憂鬱を忘れられた。そんな鎮痛剤のようなブログに誰かにとってはなり得るかもしれない。これも執筆をはじめる1つの理由だ。

これからは憂鬱をはじめとした気分に身を任せてブログを書き進めていく。